小説「逃亡」<1990年代頃>
朝だった。大浴場に行くことにした。 ロビーの手前でまでいくと、例の老人がいた。彼は自販機の扉を開けようとしているところだった。また開け間違えやしないかと少し期待したが、大丈夫なようだった。すると彼はその中身をセッセッと取出し、今度は新聞紙や…
目を開けると、ナイトテーブルのデジタルは7:00だった。もう朝になったのかと思ったが、やはり夜のようだった。どうやら、いつのまにか眠っていたらしい。 着替えもしていないことに気付き、いつもそうするように、それらの定位置を決めることに没頭した。テ…
懐中電灯を持った老人のあとをついて、エレベーターに乗った。聞いてもいないのに、ここの女主人ですよ、と下を向いたまま言うのだった。はあ、と私は言う。 老人の顔は膝にもぐり込みほどになっていて、そのため懐中電灯は床を引きずっている。廊下の先はま…
「湖―一キロ先右折」 ヘッドライトがようやく照らしだす道を進むと、続く白樺が宙に浮かび立ち並んでいる。闇は湖の輪郭を消し去り、実際そこに湖があるのかもわからなかった。 「本日宿泊歓迎」の看板がヘッドライトに照らし出され浮かんでいる。 本日。 車…
夏ははそこにあった。 海を渡る風は少し冷たかったが、陽はほのかに包むように肌を照らした。 五歳ほどの少年がいて、波が彼の白いシューズを濡らした。それをきっかけにしたのか、海に歩を進めると、あとはじっとそこに立ち尽くしていた。無邪気なのは海の…
ゆっくり」という文字はなんてゆっくりとしているのだろう。「ゆ」の一度止まってくるっとまわる包み込むような優しさ。「り」の木々を渡る風のような優しさ。もちろん「ゆ」と「り」の流線が、私たちを心地よい安眠に誘うのだが、この小さい「っ」が、ある…
そこはアフリカだった。 そう、あの日からだ。私のお腹が痛くなったのは。 新しく入った須田さんです、と紹介された時は正直自分の目を疑った。その顔がちょっと尋常ではないのだ。一体どれだけ尋常でないかというと、ほのかに今後の身の上を案じなければな…