夏ははそこにあった。
海を渡る風は少し冷たかったが、陽はほのかに包むように肌を照らした。
五歳ほどの少年がいて、波が彼の白いシューズを濡らした。それをきっかけにしたのか、海に歩を進めると、あとはじっとそこに立ち尽くしていた。
無邪気なのは海のほうで、少年の足元を追ったり逃げたりし続けていた。
砂浜には白い大きな犬がいて、そこに青いシャツにチノパンを履いた若者が駆け寄る。目深に帽子を被っている。捻挫でもしたのか、少しびっこをひいていた。
彼は座り込み犬の頬に触れる。その手は犬の背を撫でていく。
すると犬はそこに横たわり、そして何か世界を熟知するもののようにまぶたを閉じた。
それよりもずっと後ろ、サーフボードの積まれた目立つ黄色い自動車の横に、ショートカットの女が立ってる。
ねえ。
と彼は言ったようだった。
若者は彼女を見上げるように振り返った。
女はじっと海を見つめている。
ねえ。
と、また彼は言ったかもしれない。
女は彼の方に降りて行く。
犬を挟むように砂浜に腰をおろし、彼女もまた儀式のように犬の背に手を降ろした。
犬は二人の手を背中に感じながら、何もかも受容していく。犬だけが全てを知っていた。
また遠い目する。
若者は女に言う。女は笑いながら、やはり海を見ていた。
ひどく静かだった。波の音さえしていなかった。
いつの間にか少年はいなかった。陽は傾きはじめ、その色を海に映し出そうとしていた。
帽子の若者は缶コーヒーを二本買い、一本を女に放り投げると、彼女はとても上手に、キャッチする。
ジーンズのお尻の砂をパンパンと払うと、急に車まで駈けていき、エンジンをかけた。
大音量でレゲエが流れた。
待って下さいよー。
若者はギコギコとびっこをひきながら、それを追い掛ける。
車は彼を置き去りにした。
また、やめて下さいって。
二人の笑い声とレゲエが、ドアの閉まる音と一緒に消え、車はもう見えなかった。
海はあいかわらず、そこにあった。満ちたりひいたりしながらいつもそこにあるのだと思った。
そんなふうに、私はじっと海を眺めて続けていた。いや、
海を眺める?
そんなことがあるだろうか。私はそこに五分といなかった。
その間でさえ、足元の砂を見つめていたに過ぎない。
握り締めた砂は、いつだって固まることはなく、指の隙間からこぼれ落ちた。 砂の城のように、脳がぐらつくのを感じていた。
「海に浮かぶ脳は浜辺から見てあんなに小さい。
だが、それは氷山の一角に過ぎず、そのほとんどは深い海の底にある。」
さて、どこに行こうか。
海岸を出ると、どうしてか道路は急に渋滞になっていた。
どんな場所にも停滞はあるらしい。
いつのまにかガソリンが無くなりかけていて、スタンドに入った。
いらっしゃいませぇ。
それは随分と久しぶり聞くに人の声のような気がした。
店員はこちらが赤面するような笑顔で、
レギュラーですか?ハイオクですか?
と言う。
数人が機敏な動きでフロントガラスを拭き始め、その顔があまりに近づいた時には、視線のやり場に困ったりした。
そのうちの一人の首がグラッと斜めになり、そのままゴロゴロと頭が下に落ちた。店員はそれを拾い上げ器用にはめると、また満面の笑顔で、
はい、ありがとうございましたー。
と言った。
見ると、となりに一台のセダンがある。
運転席に男、後部座席に女と子供が乗っている。
男はチラとこちらを見たようだったが、それは煙草を消す仕草に変わった。
女は前を見ている。その横顔は陶器のような美しい輪郭をしている。
その陰になってよく見えないが、子供は海にいた少年のようだった。
このセダンは海の帰りには見えなかった。
少年は少し斜めに窓の外を眺めている。
彼ら三人の視線は交わらないまま、スタンドを出ていく。
路肩の段差にグラと三人が同じ角度で揺れた。
その後もこのスタンドは壊れたコピー機のように、次々と車をあふれ出した。
どうやら渋滞の原因はここにあるらしかった。
渋滞してたのは何だったのか。