「湖―一キロ先右折」
ヘッドライトがようやく照らしだす道を進むと、続く白樺が宙に浮かび立ち並んでいる。
闇は湖の輪郭を消し去り、実際そこに湖があるのかもわからなかった。
「本日宿泊歓迎」の看板がヘッドライトに照らし出され浮かんでいる。
本日。
車のデジタル時計はちょうど深夜の12時を示している。
「翌日宿泊歓迎」とは書かれていない。
私がいる場所は、翌日なのだろうか。本日なのだろうか。
区切りはいつつけたらいいのだろう。
ともかくは今はそのホテルだけが目指すべき何かだと感じた。
それは意外な光景だった。
エントランスの吹き抜けの天井は高層ビル街の夜空のように高く、フロントは拒絶するように威圧的だった。
ロビーはクローズしたスケートリンクのように冷たく広い。
そして、またしても奇妙な抽象画がロビー一杯に並んでいるのだった。夜にその歪みは一層増して見える。
須田か?いや、絵だ。
もしかしたら、これらは全て客なのかもしれない。ロビー一杯の。
どちらでもいいことだ。
他人が絵だろうが、人間だろうが関係ないことだ。絵のほうがよっぽど真実な時だってあるのだから。
フロントまではひどく遠かった。
奥の壁にゴールドの世界地図がある。それには各国の時間が表示されている。
リアルタイムでどこかにいる新聞をよむメキシコ人と、ここにいる私と時間が違うとはどういうことなのだろう。
飛行機に乗ったら、私たちは明日を生きることも出来るのだ。
とりあえず何時なのだろう、私は。
私は何時?
「今、何時」という言葉はおかしい。
今とは私が存在する空間にほかならない。だが、時も空間も変化し続け止まることは決してなく、「止まる」という言葉は不可能なのだ。
何時?と聞いた時点でその時はもう無い。
地図のなかから「JAPAN」を見つけたが、ふと悩んだ
悩んでいることは別のことのような気もしたが、目の前にいるフロントマンに言う。
ここはジャパン、イエ、日本ですか?
どこでもかまいませんが。
フロントマンは私を見ずに答える。そうかもしれないと思った。
そこで彼は顔を上げると、何か、といった顔をこちらに向ける。
よく見ると、その顔は白髪の老人で、しわは古本屋の本のように乾燥しているのだった。
泊めて頂きたいのですが。
すると老人はパッと私に手のひらを見せて、ヨイショと言った。どうやら踏み台のようなものから降りたらしい。彼はカウンターの影に隠れてしまう。
そっと近づいて、爪先立てて覗いてみると、彼は非常に小さく、しかも床に顔がつくほど腰が曲がっている。老人だ。
そして奥の事務所と書かれたドアを開ける。やっとノブに手を伸ばして。
出てきた女は美しく、髪は紫色で背中の大きく開いた白いシースルーのドレスを着ていた。
何者なのだ?
事務所のドアのすきまから男の背中が見える。テレビの音が聞こえる。
男はこちらを見ない。
女の横で老人は、頭があまりに下がったためにずれた蝶ネクタイを直すと、あとは神妙な顔をしたまま無言でいる。
女は長いつけマツ毛をした目で私を見ている。
沈黙が続いたので、何か言わなければならないと思った。
だが、何を言えというのだ?知らない人に。
そう、言うべきことは確かにあったのかもしれない。あのとき。
ただもし、差し迫った問題、つまりは現実的な問題があるならば、それを解決させることが先決だ。
とりあえず、ベッドが欲しかった。私は再度言う。
あの、泊めて頂きたいのですが。
女はまず私を上から下まで視線で舐め、その視線が床までつくとそこで一旦止まり、再び下から上まで舐めあげた。そして、
いいわよ。若いから。
と言い、人差し指の指紋を見せた。その指はひどく細かった。
若いからの意味がわかるようでわからなかったが、宿泊者カードの年令欄に23と書いた。ほんとは29だったかな、と思った。
そうしてカードに記入している間も彼女は社交ダンスの燕尾服を仕立てるお針子さんのように、私を観察し続けた。
そして、事務所らしき部屋に戻ると、背中だけ見える男の肩に手をやり、
いるのよ、この間もね、夜中に泊めて下さいって言って、指輪を湖に捨てるんだって、泣くのよ。
笑っちゃったわよ。ねえ。
となぜか猫なで声を出した。そしてゆっくり耳元に口唇を近付けると、
名所でしょ、コ、コ。ね、ほら湖
と囁き、瞳だけこちらに向けて少し笑ったような気がした。
気が付くと、ホテルはひどく古びていた。