unconscious 脳

完成しない何かを書くADHD脳の片付かない本棚

「逃亡」5 古びた部屋

 

懐中電灯を持った老人のあとをついて、エレベーターに乗った。聞いてもいないのに、ここの女主人ですよ、と下を向いたまま言うのだった。はあ、と私は言う。

 

老人の顔は膝にもぐり込みほどになっていて、そのため懐中電灯は床を引きずっている。
廊下の先はまっくらで何も見えない。この先は湖がぱっくりと口を広げているに違いない。

 

だが、たどり着く前に老人は止まった。

 

さあ、こちらですよ。 

 

そう言って勢いよくドアを開けると、背骨は急にまっすぐになり、どんどん部屋の中へ入ってゆく。 バスルームのドアを開け、わざわざお湯を出してみせ、次には暖房器具の前にすばやく移動し、ぱっとしゃがむとその調整の仕方を満足気な表情で教えてくれるのだった。

だが、私は言わなければならなかった。

 

あの、この部屋違う…みたいですが。

 

それはベッドに眠っている人がいたからだ。

 

 

時に人は居場所を間違える。

 

 

部屋はシングルのわりには広いつくりだった。
少し陽焼けしたカバーの掛けられたベッドと薄いレースのカーテン、丸いテーブルには、その脚がグラグラするほど重そうな陶器の灰皿、アールデコ調の施し部分が色の落ちたスタンド、茶器、衛生放送の映らないテレビ、窮屈に収められた机と椅子、その上にホテルの案内書、きっと引き出しには聖書があるのだろう。

そういった家具の全ては、忘れ去られた写真ように古ぼけていた。

 

鏡がなかった。

 

冷蔵庫の前には、大きめのシミがあることに気付いた。 
このシミの過去と未来について、或いはシミの示す現代美術の流れについて考えても、やはりキリがなさそうなので目を逸らし、フウとため息をしてみた。

 


カーテンの外は湖なのだろう。
この部屋を案内し終えた老人は、この湖は深いですからねえ、とつぶやいきながら、去っていったのだった。

 

私はまず厚地のカーテンを閉め、夜を固定することにした。
カーテンは朝を迎えるためにあり、無限な闇を覗くために存在してはいない。

 

多分。

 

 

 

カーテンを閉めると、疲労如実に顔を出した。
バタッとベットに倒れ込み、横になったまま、靴を脱ぎ捨てた。
身体を横にしていくと、壁にかかった一枚のリトグラフが目に入った。

 

砂漠に月、一人の細い人が立っている。

 

『恐ろしいことに彫刻はどんどん小さくなっていった。小さいという点に限れば、どれも似たようなものだが、にもかかわらずその大きさが私を反発させ倦まずに最初から始めるのだが、数ヵ月後には結局また同じところに戻って終わるのだった。大きな人物は間違っていると思え、小さいものとてもうけいれがたかった。そしてあまりに小さくなってしまい、ナイフで最後にちょっとでも手を加えようものならこなごなになってしまったものだった』
―アルベルト・ジャコメティ

 


眺めていると、砂漠にいるようで喉が乾いた。
もう少しも動きたくなかったけれど、何か飲もうと思った。

 

だが、冷蔵庫を開けると空だった。

 

冷蔵庫は空にしてあります

 

それは丁寧な文字でに書かれてあるのだった。

 

空?いや、そら?

 

ふと見ると、テーブルの上に小さな皿にのったお菓子がある。「湖畔の恋人」と銘打ってあり、その下に小さく「かみます」と書いてあった。
―カミマス?
 それを皿ごと冷蔵庫にしまいこんだ。

ふう、

一体あれから何日経つだろう。

 

 

 

 


あれから?