unconscious 脳

完成しない何かを書くADHD脳の片付かない本棚

「エンドレスキューブ」3

クラブの壁は真っ黒に塗り込められている。長野が、黒のペンキをぶちまけて絶叫し、狂ったように黒を塗り続けた。
地下へ降りる階段。群れているやつら。視線。そこにドアがある。開けた瞬間に鼓動は侵される。
空気は膨張するように充満している。一定のリズムで影が交差する。ひどく離された密着感。匂い。音。
そして私は見る。それは一枚の絵のように。不健康そうな頬骨。彫り込んだ瞳。狩野がいる。
彼のまわりには女たちがいる。匂いだけを発散して。
彼は笑う。その魅了されてしまう笑みを、女たちに与えている。
狩野が私に気づく。私は少しほほ笑むが、そばには行かない。何かを隠すように。

 

――さとみ。久しぶりじゃねぇ?
肩に手を回すのは田代だ。なれなれしいふりをして。誰にでも。
――ほら、あれ長野さん置いてったやつ。
カウンターの上の牛の頭骸骨。やめろよ。指をさすなよ。そして、私を覗きこむ。
田代は、私がこのクラブに顔を出さなくなったのは、長野がカナダに行ってしまったからだと思っている。 その腕をはらう。ニヤニヤした顔を。

長野はそう、もういない。
彼の部屋のソファのはじには、いつも牛の頭骸骨が置いてあった。投げ捨てるように。投げ捨てられないままに。散乱した画材とともに。
長野の彼女は、5年前の夏に癌で死んだ。腕に頭骸骨のタトゥを彫った。そこだけは誰にも触れさせなかった。
その穿たれた瞳の奥に深海がある。それはいったい誰の涙なのだろう。

――おい。
そして、女の叫び声。
――てめえ、痛ぇんだよ。田代の振り回した腕が、牛の頭蓋骨にぶつかり、女の腰に手を回していたドレッドの背中を打ちつける。頭蓋骨は、床をゴロゴロと転がってゆく。
ドレッドは田代の喉元をつかんでいる。
――あ、と言ったきり田代は怯えたままだ。そう、いつだって。わかってる。
クラブの空気が冷める。いや覚める。何だよ、おいやめろよ。しかし、目は好奇と期待に踊りはじめている。
――やれ。
皆、自分の中の吐き出したい塊を砕いてくれると思っている。転嫁して。転嫁は転嫁でしかないのに。
――やめろ。
吉田だ。突然に主役が登場する。
吉田はもう何年も前から、ここで働いている。夜をつぶすように。
――あー吉田さんじゃぁないですか。前からムカついてたんだよ。いつも自分ばっかりつらい顔してよ。
ドレッドがヤりたかったのは、吉田だ。田代でなどない。
――あぁ。だからここではやめろ。
 そして、吉田はドレッドつれて外へ消える。その後を腰のゆるい女が追いかける。観衆は放置される。
田代は、いや、やつのことはどうでもいい。
私は頭蓋骨を拾う。

 

再び、クラブのボリュームが上がる。ひとりが絶叫する。
誰かがカウンターの上に上がる。
スキンヘッドの太った女だ。黒人の首に足を絡める。そして突然に、指をさす。
瞳孔が裏がえってゆく。絶叫するのは私だ。

この揺らぎは、終わりに近い。光に晒されて。光に汚されて。
狩野は影の中、壁にもたれている。もうすでに、笑みを外したその顔で。
いつも遠くから見た。ただ時おり、ちらと。
それでも剥がされた彼を感じてしまう。痛みとともに、強烈に吸引されゆく。
結局、行ってしまう。彼のところへ。いつものように。そして彼の頬に触れる。
――さとみ。
彼の神経質な指が、私の手に触れる。だが、その指はすぐに宙に脱力する。
離された肌。遠い脳。
そしてほほ笑む。ほほ笑みながら、逃げたくなる。ほほ笑むしか、なくなる。